教如上人


教如上人ご在住の経緯と顕彰
教如上人の碑
教如上人の碑:道が開通した記念行事(平成13年10月)
 

本願寺の東西分派以前、第十一世顕如上人教如上人父子は、戦国の乱世に門徒衆の支援を得て織田信長の軍と戦いました。一向一揆の最終局面で、戦いは十年に及びました。
そのころ本願寺は大坂石山にあって、「霊地」 「法城」と称し、防備は堅固なうえ、門徒は決死の衆で、信長軍は苦戦しました。


天正八年(一五八〇)三月、正親町天皇の勅命により和議が成立し、顕如上人、教如上人はじめ門徒勢は大坂本願寺を退去することになりました。
顕如上人は同年四月に家臣、門徒を従えて退去しますが、教如上人は信長の裏切りによる「仏法破滅」を唱え、最後まで戦おうとして大坂本願寺にとどまりました。

しかし状況はきびしく、同年八月におよんで大坂を退去します。教如上人は流浪の身となり信長の探索を逃れて各地を転々とし、奥美濃のこの地(明宝気良小倉)にしばらく留まりました。

八代八右衛門という人が上人を迎え、住まいを提供して守ったのです。その住居址を八代氏代々が伝え、「教如屋敷」と称してきました。その間四〇〇余年、近代におよんで人去り、家移り、教如上人由緒の地は森林に覆われ、訪れる人もまれになってきました。
  僧
しかし近年、この当りが宇治川の合戦で知られる名馬磨墨の生誕の地とされ、公園が造られました。それにともなって地元有志が保存会をつくり、地内の教如上人「屋敷址」を世に知らせ、八代氏の功を称えようと、森林を切り開き、道路を作り、伝承の地の整備を進めていきます。




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