地域密着で愛される、知多市の風月

2000年10月20日
中部経済新聞掲載



地域密着で愛される
知多市の風月

【なんでモアール】 〜全国の名産品・特産品を集めたショッピングモール〜

バックナンバ
ー はこちら↑

 

 愛知県知多市の新舞子は海が近く風向明媚なところで別荘地として栄えたまちである。現在もその名残が残っていて、どこか落ち着いたほかにない品格が感じられる。この新舞子で地域密着経営で安定した和菓子の店を長年経営している「風月」(櫻井一久氏 0569−42−0579)がある。櫻井一久氏の父親がこの地で和菓子屋の基礎をつくった。この新舞子は一久氏の先々代がここに別荘をもっていたことからはじまる。櫻井氏の父親が昭和23年に現在地で店を開いた。こちらで豆をたいてまんじゅうをつくって名古屋へ持っていった。新舞子は名古屋からの疎開の人も多かった。商売を始めて除々に地元からも「新舞子においしい菓子屋がある」と評判になるようになった。順調に商売を広げていき、周りからも評価を受けるようになっていった。

風月・櫻井一久さんと家族三人
風月の店内  ところが商売を始めて17年も過ぎた46歳のとき、突然がんに冒された。約2ヶ月の療養生活であった。2人の子供を抱えて途方にくれた妻のサダ子さんはそのとき41歳だった。病院からはもうだめだということで家に帰されて1ヶ月療養していた。その間、菓子の作り方を一生懸命聞き帳面に書き出した。当時、一久氏は高校1年だった。それからがサダ子さんの奮戦が始った。最初は毎日泣いていた。そのうち地域の人からあんたがやるしかないといわれ、我にかえった。一人では作れないので取り売りもした。しかし、一品でも2品でもよいからつくって売りなさいとアドバイスをされ、そうすることにした。そのうち、法事の菓子をつくってほしい。あなたの店の菓子がよいからと、2件3件と注文がくるようになった。
 周囲の菓子屋もいろいろ何件もあったが、ご主人が亡くなると止めていく店が多かった。高校生の一久氏と中学1年の娘さんを抱えて、夢中で菓子づくりをして生計を立ててきた。年の暮れの12月20日頃からは深夜1〜2時頃まで働きとおした。母サダ子さんの頑張りは一久氏が家業をつぐまでの何年間が山場 だった。「死にたい、死にたい」とよく言っていたようだった。一久氏は菓子修行に名古屋で4年半働いた。家業につくようになった頃には地域の中でも固定客は沢山いた。生菓子5種類に、もなか・ようかん等が中心アイテムで、店売り100%の店だ。法要・入園・入学式・結婚式とお祝い事に多く使ってもらっている。多い時には10個入りが800個〜1000個注文が入る。
生菓子5種類に、もなか・ようかん等が中心アイテムで、店売り100%の店です
「風月の菓子はむねやけしないから」と評判!  「風月の菓子はむねやけしないから」との評価をうけてきた。一軒買って頂くと口コミで良かったからと広がっていった。食べた味を覚えていて、敬老会やほかの行事に紹介を頂く。一久氏の妻さち子さんが加わったことで一層店は繁盛するようになった。春は入学・入園。毎月1回行わ れる地域の売りだし日は、「自家製白玉ぜんざい」や、夏は「あんみつ姫」を限定80個販売する。10月はいもまんじゅうを一日で700〜800個予約販売する。一年を通じていちばんの極めつけは正月の干支を形どった正月菓子である。デザインを勉強した、さち子さんがまんじゅうの絵をPOPとして描き店頭で予約を受け付ける。その年の干支の生菓子を5〜6種類つくる。材料もそれぞれすべて違う。1500〜2000個つくる。

  年末の2日間で機械は一切使わずすべて手作り作業である。正月のおせち料理と同じように食べる習慣がこの地にはあると言う。景気が悪いから注文がくるか毎年心配をするが、今までは順調に注文は入ってきた。「とにかく動かないと収入にならないんです。」と3人は笑う。お互いを助け合って、3人がスクラムを組んで商売を一生懸命盛り上げて行こうとする暖かいものを感じる。商売というものは大きくするだけが良いのではない。地域に必要とされる美味しい菓子を精一杯作って貢献していく。そして伝統を後世に引き継いで行くことが重要なのかもしれない。お互いをかばいあって家族一丸となって頑張っている「風月」に、とても温かいものを感じた。久しぶりに家族で頑張っている商売の良さをしみじみと感じた。  

さち子さんがまんじゅうの絵をPOPとして描き店頭で予約を受け付ける。
トピック履歴一覧へ 中部経済新聞連載記事(毎週金曜掲載)
『うつりゆく商業環境と躍進するまちと店』
広野 嘉代子