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2001年4月6日 |
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紀伊長島町は名古屋から特急に乗って約2時間の熊野灘に面した風光明媚なまちである。まちづくりの発端となったのは民宿経営の相談からだった。民宿3業者から「これからの民宿づくり」をどうしたら良いだろうかと。それは昭和45年より整備が進められてきた「熊野灘レクリェーション都市整備計画」やその年に国が制定した「総合保養地域整備法」第1号承認の旗揚げとして提案された国際リゾート「三重サンベルトゾーン構想」に伴う、観光地としての受け入れ態勢を創るということが背景にあった。料理、器、そして環境づくり、宣伝などを3業者と一緒になって進めていった。それを進めていく為には名前が必要ということになり、最初は「グルメの会」として発足をした。 |
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グルメ嗜好の時代にマッチしたものをとの考えからであったが「グルメの会」ではインパクトが弱すぎるということになり、紀伊長島を象徴するようなネーミングは無いものかと思案をしていたとき、「さかなの町紀伊長島町」の「魚」をギョに読み替えグルメをかけ合わせて「ギョルメ」とすればとふと思いついた。印象に残るネーミングは今後活動して行く上で大きな要素となる。こうして「魚ルメクラブ」のネーミングはできあがった。次ぎの年には「ギョルメクラブ民宿部」の発会披露を兼ねた料理試飲会を開催した。町長・各種団体等17名を招き、原価あてクイズ、試食結果や物産・観光面共通の内容でアンケートをとった。 |
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| 民宿部の活動が進むにつれ、物産部発足の話も持ち上がり5業者が設立した。積極的なCIの導入によりロゴマークいりのおしぼりや箸袋・名刺を共同で製作した。除々に民宿づくりの意欲も高まってきた。そんなとき、名古屋テレビ「東海ふるさとの旅」取材の話が持ち上がった。タイミング良く世に出るきっかけをつかんだ。物産部も本格的に動き出した。これもむらおこし事業のなかで展開していくことにきまった。みんなでアイデアを絞り出し独自の製品開発に積極的に取り組んでいった。年間20回程度物産展に出店するなどして市場を模索していった。そして、平成3年には「販路開拓支援事業」に着手した。このような活動が新聞などにも取り上げられるようになり、「ギョルメクラブ」の名が除々に知られることとなってきた。 | ![]() |
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各方面から物産展や雑誌の取材の話が飛びこんでくる。勿論、掲載費用はいらない。一生懸命にやっていると自然としられることになるのかもしれない。紀伊長島の小魚料理をテーマに、発行部数40万部を数えるテレビ朝日出版部の雑誌「おかずのクッキング」にも掲載されることになった。それらをきっかけにJTB発行の「旅」、プレジデント社の「ダンチュウ」などにも取り上げられるようになった。ギョルメクラブのメンバーも民宿・海産加工販売・練製品製造販売・味噌類製造販売・製材・菓子製造販売・飲食と15業者になった。お互いに本物にこだわる製品づくりをしてきた。最初に相談のあった民宿経 営者の経営指導にあたってきたのが、紀伊長島町の経営指導員/西村幸彦氏(紀伊長 島町商工会TEL05974-7-05769)だった。 |
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| 皆さんのヤル気をどんどん引き出し、漁業から商業の転換の指導や民宿経営そしてものづくりの指導など商工業者の意欲を盛り上げてきた。まだまだその後の大きな展開があったが紙面の都合で省略させて頂く。全国各地商工会議所・商工会はあるけれども、これほどまでに活動しているところは本当にひとにぎりと言えよう。紀伊長島町商工会はいつも活気に満ちている。事務局長をはじめとして商工会の職員の皆さんが一致団結して会員のために働いている。わたしが夜からの講演を終え、西村経営指導員と夜半までギョルメクラブの話をお聞きしていたその日も、ほかの職員さんも一生懸命働いていた。決して働かされているのではなく、嬉々としているようであった。こんなに活気にみちた活動をしている商工会に拍手を送りたい気持ちになってきた。 |
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| トピック履歴一覧へ | 中部経済新聞連載記事(毎週金曜掲載) 『うつりゆく商業環境と躍進するまちと店』 広野 嘉代子 |
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