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雲龍の館




明治6年撮影
第十代横綱雲龍
   大和町は、7世紀頃から干拓事業が進められ、海岸線は有明海の広大な干潟に、沖へ沖へと延びて行きました。
 町の南端に位置する国営「大和干拓」は、13年の歳月と29億円の巨費をかけて330haの大干拓となり、小学生の会社見学など毎年2万人を越す見学者が訪れます。
 また、日本大相撲横綱土俵入りの雲龍型の創始者である、10代横綱雲龍久吉の生誕地でもあります。
 当館は、10代横綱雲龍久吉ならびに大相撲の関係資料とともに、有明海の自然と暮らし、干拓の歴史など多彩な展示をしています。

ご利用案内
施設の概要
■開館時間 午前9:00〜午後5:00
※ただし、入館は
  午後4:30まで
■休館日 毎週月曜日
年末(12/28)〜年始(翌年1/4)
■観覧料 町内居住者は無料
町外 小 中  生  50円
    高校生以上 100円
 
  総 面 積
11.430u
■雲龍の館
  構   造
  建築面積
  延べ面積
    1 階


    2 階

鉄筋コンクリート2階建
516.88u
996.01u
(資料室、収蔵庫、事務室、
ロビー)
516.88u
(図書室、児童コーナー、
会議室)
449.13u
■多目的施設
  構   造

  建築面積
(相撲ドーム)
鉄骨(立体トラス)構造
屋根:テフロン葺
698.81u
高さ:14m20cm
直径:30m

地図


雲龍久吉年譜

 

 

 

 

 

 

1823
(文政 6)
筑後国(福岡県)山門郡大和町大字皿垣開甲木の塩塚久平治の長男として生まれる。
1831
(天保 2)
久吉 9才(数え年)
当時、村に悪い病気が流行し、両親を一度に亡くす。身よりの少ない久吉は、三人の弟の面倒を見ていく。
1838
(天保 9)
久吉 16才
この時、矢部川改修工事の人夫として働く。久吉は、大きな川石を二つ天秤棒でかついで三里(12km)の道を平気で運び、人々を驚かせた。(現在、この川石二つは海童神社境内にあり、生年達の力石となっている。)
1841
(天保12)
久吉 19才
地方巡行に来た江戸相撲の年寄追手風に見出され、相撲とりを勧められる。しかし久吉は、弟達の面倒を見るため、一旦断る。
1846
(弘化 3)
久吉 24才
力士になる決心をし、大阪相撲陣幕のもとで修業を始める
1847
(弘化 4)
江戸に行き、追手風に弟子入りし、雲龍を名乗る。実力を認められ、幕下付け出しとして初土俵を踏む。この場所、土つかずの全勝という好成績を納めた。
1848
(弘化 5)
柳川藩お抱え力士となる。
1852
(嘉永 5)
久吉 30才
2月入幕し、5場所連続優勝の成績を残す。
1853
(嘉永 6)
浦賀にペリーの率いる黒船が来航し、アメリカの使者をもてなすための相撲大会に参加する。雲龍は米俵を手玉にとって、怪力ぶりを披露する。
1854
(嘉永 7)
春場所、小結に昇進する。
この頃、師匠追手風の養子となり、追手風の実兄定右衛門の娘おこまを妻とする。
1856
(安政 3)
冬場所、関脇に昇進する。
1858
(安政 5)
春場所、大関に昇進する。
入幕以来、64勝8敗8分4預りの好成績を納める。
1861
(文久 元)
久吉 39才
吉田司家から10代目横綱の免許を受ける。
この年土俵入りし、地元民に大歓迎を受け、三柱神社に石灯篭1対、甲木の氏社・海童神社に石鳥居と石灯篭1対を奉納。また荒人宮を建立し、祭田二反歩(20a)を寄進する。
1865
(慶応 元)
久吉 43才
この年引退し、養父追手風の後をつぐ。
東京回向院の御門を築いて寄進したが、大正12年の大震災により焼失する。

1890
(明治23)

久吉 68才
この年、6月15日 東京本所吉田町の自宅で死去する。
雲龍久吉は、横綱在位5ヶ月8場所を努めた。

入幕以来、127勝32敗5預りで、優勝7回の好成績であった。横綱の手数入り「雲龍型」の創始者である。


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