雲龍の館
![]() 明治6年撮影 第十代横綱雲龍 |
大和町は、7世紀頃から干拓事業が進められ、海岸線は有明海の広大な干潟に、沖へ沖へと延びて行きました。 町の南端に位置する国営「大和干拓」は、13年の歳月と29億円の巨費をかけて330haの大干拓となり、小学生の会社見学など毎年2万人を越す見学者が訪れます。 また、日本大相撲横綱土俵入りの雲龍型の創始者である、10代横綱雲龍久吉の生誕地でもあります。 当館は、10代横綱雲龍久吉ならびに大相撲の関係資料とともに、有明海の自然と暮らし、干拓の歴史など多彩な展示をしています。 |
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ご利用案内
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施設の概要
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雲龍久吉年譜
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江
戸 |
1823
(文政 6) |
筑後国(福岡県)山門郡大和町大字皿垣開甲木の塩塚久平治の長男として生まれる。 |
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1831
(天保 2) |
久吉 9才(数え年) 当時、村に悪い病気が流行し、両親を一度に亡くす。身よりの少ない久吉は、三人の弟の面倒を見ていく。 |
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1838
(天保 9) |
久吉 16才 この時、矢部川改修工事の人夫として働く。久吉は、大きな川石を二つ天秤棒でかついで三里(12km)の道を平気で運び、人々を驚かせた。(現在、この川石二つは海童神社境内にあり、生年達の力石となっている。) |
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1841
(天保12) |
久吉 19才 地方巡行に来た江戸相撲の年寄追手風に見出され、相撲とりを勧められる。しかし久吉は、弟達の面倒を見るため、一旦断る。 |
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1846
(弘化 3) |
久吉 24才 力士になる決心をし、大阪相撲陣幕のもとで修業を始める。 |
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1847
(弘化 4) |
江戸に行き、追手風に弟子入りし、雲龍を名乗る。実力を認められ、幕下付け出しとして初土俵を踏む。この場所、土つかずの全勝という好成績を納めた。 | |
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1848
(弘化 5) |
柳川藩お抱え力士となる。 | |
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1852
(嘉永 5) |
久吉 30才 2月入幕し、5場所連続優勝の成績を残す。 |
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1853
(嘉永 6) |
浦賀にペリーの率いる黒船が来航し、アメリカの使者をもてなすための相撲大会に参加する。雲龍は米俵を手玉にとって、怪力ぶりを披露する。 | |
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1854
(嘉永 7) |
春場所、小結に昇進する。 この頃、師匠追手風の養子となり、追手風の実兄定右衛門の娘おこまを妻とする。 |
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1856
(安政 3) |
冬場所、関脇に昇進する。 | |
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1858
(安政 5) |
春場所、大関に昇進する。 入幕以来、64勝8敗8分4預りの好成績を納める。 |
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1861
(文久 元) |
久吉 39才 吉田司家から10代目横綱の免許を受ける。 この年土俵入りし、地元民に大歓迎を受け、三柱神社に石灯篭1対、甲木の氏社・海童神社に石鳥居と石灯篭1対を奉納。また荒人宮を建立し、祭田二反歩(20a)を寄進する。 |
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1865
(慶応 元) |
久吉 43才 この年引退し、養父追手風の後をつぐ。 東京回向院の御門を築いて寄進したが、大正12年の大震災により焼失する。 |
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明 治 |
1890
(明治23) |
久吉 68才 |